☆NO26 2way・マーガーレット
立秋とはいえ未だ日中35度の日が続いてます。
夏休みの宿題?として鉤編み1点仕上がりました。

フリーサイズで幅50cくらい 丈100cくらい
素材はニッケのエヴァ 5玉 鈎針5号
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斜め編みですので、体にフィイットします
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                                    どくだみ・舞さんの作です
                                    誰でも匂いを嗅がれます
                                    それが楽しみです・・・

ひまわり編み物
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# by piko4438 | 2006-08-17 10:37 | ニットルーム
戦争と平和(8月に思うこと
昭和20年8月15日 久留米にて終戦
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家も 着物も 教科書も無くした私たちは親子5人六反畑、
今の聖マリヤの北に野宿してました。
他に2~3家族居られたようです。
少し斜めになってた、土地で下にござを敷き、休んでました。夜中に目を覚ますと
お骨を抱えたまま下のほうに滑り落ちてます。何回か這い上がっては寝てました。

昼は焼け跡の片付け、川魚屋だった家には大きな、生け簀とコンクリートの冷蔵庫
だけが残ってました。
陶器類は生け簀の中に沈めてましたので、茶碗類は少しありました。
冷蔵庫 (この頃は氷で冷やしてました)の中に1斗缶1杯の米も母が入れてたらしく、
焦げもせづ残ってました。

2・3日すると大隈の叔父が、家に来てくれと呼びに来ました。
兄達を野宿なんかさせてと、近所の人から責められたそうです。
私達は何処に居ても危ないのだから、誰にも迷惑かけないようにと、思って居たのに・・
その頃は昼夜をとわず空襲が激しくなって、外を歩くのも怖いくらいでした。
その点此処は安全でした。

それから叔父の家に落ち着いたものの、百姓といえど食料も乏しく
自分達だけ食べるわけも出来ず、だんだん子供同士険悪に成って来ました。

15日朝から警報も鳴らず、不気味な静けさでした。
そのうち天満宮の境内に大人達が集まり始めました。
私も付いていくと、誰が持って来たのかラジオが置いてあり、
今から大事な放送があるから聞くようにとの事でした。
ラジオはただピーピーガーガー云うだけで何も判りません。
処が一人の人が「日本が負けたと天皇陛下のお声だった」と言われたのです。
今でこそ繰り返し放送されたので、判りますが、
どうしてあれが聞き取れたか不思議でたまりません。変なことが心に残ってます。

私達も空襲が無いならと、焼け跡に防空壕から出した材木でバラックを父が建てました。
材木は少しありましたが、トタンは何処からか拾って来たのでしょう。冷蔵庫を壁にして、
御殿が出来ました。本当に御殿と思いました。
電気も無い、建具もない六畳位の家でしたが、誰に気兼ねも無く寝れたのですから・・・

近所はお迎えさん以外は借家だったらしく二度と戻っては来られませんでした。
で外地からの引揚者、尋ね人のお世話が大変でした。

罹災者に地下足袋とか糸 布の配給があります。それを食料に換え飢えを凌ぎました。
一番の思い出は、地下足袋をミカンに換えたときです。朝 昼 晩 と食べまくり、
手も足も黄色くなり歯がキイキイ云ったのには困りました。

その頃来たのが枕崎台風です、素人が作った家はひとたまりも有りません、
あっという間に倒壊です。私達子供は長持ちの中に入れられました。
着物は姉の死で、疎開先から持って来てたので焼けましたが、
長持ちと布団は助かっていたのです。一畳くらいの大きさですので入れます、
でも時々空気を入れてもらわないと・・・母達はずぶぬれに成りながら守ってくれました。

この時も御主人亡くされた会長の奥さんが呼びに来て下さいました。
苦しい時に助けられます。ありがたいです。
誰でも大変なのに助け合いの心は無くなっては居ませんでした。

この頃の親達はお国の為と子供 主人を送り出し、自分達は銃後の守りと、
今思えば馬鹿げた事を必死でやっておりました。
竹槍訓練、焼夷弾の消し方、バケツリレーで水掛訓練、等・・
誰が言ったか焼夷弾が天井に引っかかると危ないので、
と殆んどの家では天井板剥がしてました。

誰も気が付かなかったんでしょか、それとも逆らえなかったのか、
国全体が可笑しかったんでは、・・・人間魚雷。人間爆弾。
考えても恐ろしいことを、国はやってきたのです。
国民にも、外国にも、争いの無いように出来ないものでしょうか。
もう少し冷静になって下さい。誰でも争いはいやですから
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3回に分けて書きましたが書くほどに思い出が沸騰して来ます。
今年は何時もより反戦の放送が多い様に思います。
世界がまた大きな災いの渦に飲み込まれない事を祈ってひとまず終わります。
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# by piko4438 | 2006-08-14 22:59
☆NO25チョーカー・ボトルカバー
お盆前のひととき小物を編んで見ました
ボトルカバーは昨夜です
里帰りしますので、急ぎアップしました。
◇色々の糸で試しましたが、シルクが一番スクリュウがかかったようです。
1 鉤6号ぐらいで編める糸
2 鎖100目くらい立てます 
  1目立ち上がり次の目から 鎖1目に5目づつ細編みをいれて行きます
  少し編んだらスクリュウをかけて下さい
  お好みの長さ40~44まで出来たら、きつく5目くらいのループを作ります
  反対側に8mmのパールビーズをつけます
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◇ペットボトルカバー
  前回の袋と同じ編み方です
  1 輪の中に長編み16目
  2 32目
  3 48目
  4 8柄出来ます10段くらい編んだら1柄を編み進み持ち手にします
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# by piko4438 | 2006-08-13 06:17 | ニットルーム
☆ 戦争と平和(8月に思うこと)
⑵昭和20年8月11日 福岡県久留米市にて罹災

4・5年前 前記の筑紫駅の件を読まれた、 筑紫の中学から
久留米空襲をテーマにした劇を作りたいから、生徒にお話を、と
依頼を受けました。家の事情で行けませんでしたので、
思いつくまま当時の様子と心境を手紙でお送りしました。
当時久留米の日吉小学校の生徒さんだった方が、書かれた本も添えて・・・
当然招待がありましたが、これも見に行けませんでした。
今でも心残りです。どの様に把握されたかと・・・
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久留米の空襲 突然の出来事でした。
今も不思議に思えるのは、あんなに全市街焼けてしまつているのに、
火炎を見なかった事です。
昼間だったせいかも知れませんが、燃え盛る炎を見たと言う記憶がありません。
一瞬のうちに焼け落ちたのかな・・・とにかく不思議な気がしております。

その日も抜けるような青空で、朝から暑く、やっと10日間の夏休みに入った日でした。
前記のように我が家は防空壕の作り直しが始まってました。
中に入れていた。箪笥も、机もすべての生活用具を、怒られながら、外に出しました。

これが出来れば今夜から郊外の親戚の家に泊まりに行かなくて済むと思い、
壕の中を空にして、床の張替えです。畳も敷けるようにと思いながら・・・

母は当時5歳の妹と 長女、従兄妹(いとこ)と8日亡くなった姉のお礼参りに
お寺え行く用意をしてました。
私はその頃は、空襲警報が出ても慣れっこになり、壕にも入らず、外で過ごしてました。

その日も手伝いを終えて、宿題を早く済まそうと離れで勉強中でしたが、
母から姉の供養だから来るようしっこく云われお寺につれて行かれました。

姉のお骨はこの時節だから早くお寺に納めた方が良いと云ってましたが、
戦死(女でも国の為に亡くなったのだから、忌中じゃなくこの張り紙でした)
だから まだまだお参りも多いだろう。このまま仏壇に上げたまま、急ぎお寺え出かけました。

お経も済みお茶を飲んでると、寺の前が騒がしくなり、大勢の人が、街から逃げて来られてます。空襲のサイレンも鳴らなかったように思います。
サイレンは始め警戒警報・(連続)空襲警報・(切れながら)・退避(消防団の人の声)の順です

本当に突然でした。全員裸足で筑後川の方え走って行かれてます、中には赤ちゃんを
おんぶして羽釜に白のお位牌さんを1個入れ来られたのが、凄く印象に残ってます。

その時お寺の子坊主さんが、これまた裸足でお弁当箱1個持ち、
泣きながら「タケヤガ焼けた」と言って帰って来られました。
この方も私と同級生で、徴用で、軍需工場に動員されて居られたのです。

私たちもお寺に居たら危ないと思い、大きな布団お借りして、
家陰のない竹藪に、身を潜めてました。
市内の方を見ると、太陽の光を受けて、キラキラと輝きながら、短冊みたいなのが、
沢山降ってました。時々ザーっと水を撒く様な音が聞こえますが、
その他は静かで、何も聞こえませんでした。

夕方近くなり、家の事も気になり 父と、もう一人の妹も置いて来てましたので、
取り敢えず帰ろうと、国道3号線を市内方え歩き始めた所、東櫛原迄は、
道も家もありました。
西鉄久留米駅まで来ると、ガックリです。何にも無く、ただ一つあった
デパート旭屋がぽっんと残っているだけでした。

母は顔色無くしてます。私たちが何を云っても聞こえず、ただ妹を乗せた乳母車を押して、
我が家のあった方え行こうとしますが、道路も焼け溶けて、通れませんでした。

遠回りして家の近くまで来ましたが、やはり家は有りませんでした。
100mくらい先からは残っているのに、中心全部焼失して、西は国鉄久留米駅まで
見通しでした。

道が冷めて家の所まで行くと、家の前にあった電柱らしき処に
自転車の形した鉄くずがありました。
後で聞くと、私たちがお寺に行く時居なかった妹と父は壕の中で
空襲をやり過ごして居たそうです。その時隣のおじさんが、
自転車押して来て「あんたんとこに、爆弾が落ちて、家は焼けよるバイはよ逃げんと」
と知らせて下さったそうで、押してきた自転車そこに置いて一緒に逃げたそうです。

父達に会うまで行き会う人事安否を尋ねまわりました。
暗くなって、町内会長さん宅で無事会うことが出来ました。
会長さんはその日 金丸小学校で会議中直撃弾で、亡くなられてました。

私の隣組でも壕に入って居られた方が20数名亡くなられました。
隣の同級生もお母さんと一緒に逝ってしまわれました。

私たち姉妹が無事だったのは 亡くなった姉が護ってくれたんだと、今も信じてます。
戦災に遭ったという事は大変なことですが、その後は もっと、もっと大変でした。

親子5名お寺の布団1枚で6反畑の墓地で、野宿しました。
私は二度焼かれた姉の遺骨をずーっと抱いてました。 4日後は終戦です。

両親のお陰で、亡骸 怪我人を目にすることはありませんでした。
父は隣組長してたので毎日跡形付け、家族の連絡に追われてました。
姉を亡くしてなかったら、こんなに戦争を実感しなかったかも・・・
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久留米空襲どんなに凄いことか、柱のかけらも残ってませんでした
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# by piko4438 | 2006-08-10 23:29
☆8月8日の終電車
1995年10月5日
作者の田熊正子様より頂いた童話です。

西鉄大牟田線の最終電車に
筑紫駅の手前から乗った少女の物語です。

筑紫駅に近づくと・・・
「あたしのお弁当箱、チューリップのお花の絵のついた、お弁当箱
取ってくるから、一寸待っててくれない」・・・・・・

「お弁当箱?」
それがどうしたんかいと、車掌さんは思いました。

「でなにかい、あんたのお弁当箱を何処に置いてきちゃったの?」
「ほらあそこ、川のそばの林のなか・・・・」

少し臨時停車してそのまま大牟田まで・・・
その女の子は、お母さんと一緒に大怪我をして亡くなられていたのでした。

8月8日怪我した人亡くなられた人、其処に集められていたとの事です。

※筑紫駅の待合所の保存合わせ、平和の大切なことを忘れない為に
このお話を皆で力をあわせて、1冊の本にすることが出来ました。
と結んであります。
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※3冊とも戦争体験者の寄稿本です
上 鳥栖市郷土史(栖)
中 明和会同窓会誌
下 久留米南筑中学高良隊手記
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 f0003174_14245719.gif書いても、書いても、書き足らない でも何とか伝えたいとの思いで書いてます
コメント返しも読んで下されば、少しでも、戦争の悲惨さが伝わらないかと思ってます。
戦争は殺人じゃないと言われますが、そんな大義名分は無いと思います。
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# by piko4438 | 2006-08-09 14:31