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☆千の鶴になって・・・
7月6日 梅雨明けたかなと思わせるお晴天です
      でも風が湿ってます・・・

朝起きたら首が廻らない・・・
勿論金がないから・?・

千羽鶴を3000枚用意しなければと言う、生協のお誘いに
諸手を上げて、と言うより少しでも平和の手助けにと
50枚引き受けました・・・

1週間 毎晩少しづつ折るつもりでした、処が7センチ角、ツイツイ
頑張って・・・30枚、一気に 歳ですね~~~

夏が近づくと戦争体験が悲しく思い出されます
でもその苦しさも体験された方たちがだんだん少なくなってきました。

それでもまだまだ、私達と同じ思いをしてる子供達、家族が後を絶ちません
如何して善悪が解らないのか、悲しいですね・・・

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千の鶴になって世界に平和を呼びかけて下さい。
今晩も後20枚折りましょう

ちなみに募集した時点で5000枚集まったそうです
コツコツ普段から折られてた鶴も参加です
私もお見舞い、お祝い用に折ってました、それも参加させましょうね
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by piko4438 | 2008-07-06 16:07 | 忘れまじ(war) | Comments(18)
☆終戦記念日
8月15日 猛暑

終戦記念日 何を記念するんでしょう・・・
何時も引っかかります。

巷では高校野球が、熱戦を繰り広げてます。
昨日の佐賀と、三重のたたかい(あえてひらがなで書きます)
まさに青春のバクハツでしたね。
若者はこうじゃなくちゃ・・・

私達の先輩と言っても、今の中学生くらいです。
ゲートルも満足に巻けないのに、学徒動員で、戦地に行った子
予科練に憬れた子、特攻隊として、行った子・・
毎日、見送りに行きました。
 一番心に残ってる言葉
  「行きます」  
此言葉を残して

行って来ます、じゃ無いのです。目的地に行くだけ、帰る家は無いと思え と言う
教育を受けました。
それが当たり前の事だったんです。

8月15日を境に、急転しました。親達、も私達も戸惑うばかりでした
家も学校も焼けて、小学校の友達、近所の遊び友達、居ません
小学校の同窓会しても、集まったのは、先生2名、生徒5名でした。
このようにして、私達の過去は切れているんです。

2度と繰り返さないで、下さい。
そして高校野球が続いていくことを、切に願って居ます。

※8月15日、この大戦で、犠牲になられた方の、御霊に手を合わせ
心安らかに、見守って居てください、決してあなた達の事は
忘れません・・・感謝あるのみです。心の祈念日
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by piko4438 | 2007-08-15 11:31 | 忘れまじ(war) | Comments(19)
8月12日 
昨日戦災にあった日の事をブログに書いたので見たのかな・・・

風呂屋と、西鉄社長さん宅の間の道で、ドッチボールをしてました。
ボールは綿を入れた、ボールです。

その頃の子供達の遊びは、石蹴り、陣取り、ハンカチ落とし、花いちもんめ・・・・
その いちもんめの一番に指名される可愛い みやこちゃん

11日は、叔母さんの家に遊びに行ってました。そのあとお母さんと弟は
防空壕で近所の人11名と爆弾で・・・一瞬のうちです

孤児になった みやこちゃん幸い叔母さん宅は焼失から免れましたが、其処も
子沢山、お父さんは徴用で外地え・・・

その後どんな暮らしだったか、お父さんとは会えたか、まったくワカリマセン
戦争とは一瞬の内に、思い出、幼馴染、両親までも、失くしてしまします。

一緒に遊んだ友達とも、戦後62年女学校で一緒だつたAさん以外は
逢ってません、その後皆さん達はそれぞれの道を行かれたでしょう。

元の処に居るのは私達だけです、自分の家だったので、疎開もしてませんでした。
2~3人消息を尋ねて見えましたが、私にはわかりません

そのみやこちゃんが夢で逢いに来てくれました。昔のままの可愛い姿で・・・

今朝一番に書いたよ、まだ残っていた涙流しながら・・・
夢でもいい   皆にあいたいよ~~~
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by piko4438 | 2007-08-12 06:27 | Comments(16)
☆久留米空襲(家が焼かれた!)
8月11日 酷暑 あの日もそうでした。

8月に入り、戦争体験を書こうか、どうか、随分迷いました。
去年は、そのために立ち上げたブログだからと、思い出すまま書いたのですが、
皆様の反応にとても勇気付けられました。

ドラマでしか知らない人が増えてるなか、お父さん、お母さんのお話にも
しっかと受け止められてる事が判りました。

でもこれが、孫 曾孫の世代になったら・・・
どのように受け止められるか、その証拠に、まだまだ
世界中何処かで、一握りの指導者の下、私達と同じ経験を、積み重ねてます。

テレビも、映画もカラーで放映されると、ただのドラマと思えるのは、私だけでしょうか・
悲しいことに、心の中をどのように表現していいかも判りません。

今は廻りに体験者が居られますので、話も通じます。
でも何処かの総理みたいに、ドラマの主人公気取りでは、
やはり人間飢えて見ないと、究極の痛みは、
解らないんでは、なんて僻んでも見たくなります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夕方我が家から、広沢虎造の浪曲が~~~声の主は姉です。
風呂に入ると、口三味線で、語り始めるのです・・・

道行く人も立ち止まって 又は~ちゃんじゃろう!!としばし家の前のバンコ(縁台)
に腰掛、世間話をしていかれます。そんな平和な時も有りました。

でも戦局が、厳しくなると、皆そそくさと急ぎ足、戦争の話はタブー
口数もドンドン少なくなって、ただ何かに追いかけられてるような毎日でした。

親子でも、壁に耳あり、障子に目あり、とか云って、本当の話は知りませんでした。
この頃、玉砕と言う言葉も知りました。

母は男の子が居ないから、姉が戦闘隊員として、西鉄に勤めに行ったことを誇りに
してたようです。艦載機で撃たれて、亡くなった時は、戦死と言われ、それでも
国のために、亡くなったんだと、思ってたようです。
本当の心は、今でも解りません。

そのように、男でも病気で、兵隊に行かれないと、こっそり隠れて生活されてました。
オカシイ時代でした。それも後から解ったんです。オカシイということが、
国の為この言葉は、私達には魔力でした。

6日広島原爆・8日姉の戦死・9日長崎原爆・11日久留米空襲で罹災・15日終戦短期間で一生分の体験をしたようです。

一庶民の戦争体験をタグWARに書いてます。宜しかったらご覧下さい
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by piko4438 | 2007-08-11 11:16 | 忘れまじ(war) | Comments(12)
戦争と平和(8月に思うこと
昭和20年8月15日 久留米にて終戦
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家も 着物も 教科書も無くした私たちは親子5人六反畑、
今の聖マリヤの北に野宿してました。
他に2~3家族居られたようです。
少し斜めになってた、土地で下にござを敷き、休んでました。夜中に目を覚ますと
お骨を抱えたまま下のほうに滑り落ちてます。何回か這い上がっては寝てました。

昼は焼け跡の片付け、川魚屋だった家には大きな、生け簀とコンクリートの冷蔵庫
だけが残ってました。
陶器類は生け簀の中に沈めてましたので、茶碗類は少しありました。
冷蔵庫 (この頃は氷で冷やしてました)の中に1斗缶1杯の米も母が入れてたらしく、
焦げもせづ残ってました。

2・3日すると大隈の叔父が、家に来てくれと呼びに来ました。
兄達を野宿なんかさせてと、近所の人から責められたそうです。
私達は何処に居ても危ないのだから、誰にも迷惑かけないようにと、思って居たのに・・
その頃は昼夜をとわず空襲が激しくなって、外を歩くのも怖いくらいでした。
その点此処は安全でした。

それから叔父の家に落ち着いたものの、百姓といえど食料も乏しく
自分達だけ食べるわけも出来ず、だんだん子供同士険悪に成って来ました。

15日朝から警報も鳴らず、不気味な静けさでした。
そのうち天満宮の境内に大人達が集まり始めました。
私も付いていくと、誰が持って来たのかラジオが置いてあり、
今から大事な放送があるから聞くようにとの事でした。
ラジオはただピーピーガーガー云うだけで何も判りません。
処が一人の人が「日本が負けたと天皇陛下のお声だった」と言われたのです。
今でこそ繰り返し放送されたので、判りますが、
どうしてあれが聞き取れたか不思議でたまりません。変なことが心に残ってます。

私達も空襲が無いならと、焼け跡に防空壕から出した材木でバラックを父が建てました。
材木は少しありましたが、トタンは何処からか拾って来たのでしょう。冷蔵庫を壁にして、
御殿が出来ました。本当に御殿と思いました。
電気も無い、建具もない六畳位の家でしたが、誰に気兼ねも無く寝れたのですから・・・

近所はお迎えさん以外は借家だったらしく二度と戻っては来られませんでした。
で外地からの引揚者、尋ね人のお世話が大変でした。

罹災者に地下足袋とか糸 布の配給があります。それを食料に換え飢えを凌ぎました。
一番の思い出は、地下足袋をミカンに換えたときです。朝 昼 晩 と食べまくり、
手も足も黄色くなり歯がキイキイ云ったのには困りました。

その頃来たのが枕崎台風です、素人が作った家はひとたまりも有りません、
あっという間に倒壊です。私達子供は長持ちの中に入れられました。
着物は姉の死で、疎開先から持って来てたので焼けましたが、
長持ちと布団は助かっていたのです。一畳くらいの大きさですので入れます、
でも時々空気を入れてもらわないと・・・母達はずぶぬれに成りながら守ってくれました。

この時も御主人亡くされた会長の奥さんが呼びに来て下さいました。
苦しい時に助けられます。ありがたいです。
誰でも大変なのに助け合いの心は無くなっては居ませんでした。

この頃の親達はお国の為と子供 主人を送り出し、自分達は銃後の守りと、
今思えば馬鹿げた事を必死でやっておりました。
竹槍訓練、焼夷弾の消し方、バケツリレーで水掛訓練、等・・
誰が言ったか焼夷弾が天井に引っかかると危ないので、
と殆んどの家では天井板剥がしてました。

誰も気が付かなかったんでしょか、それとも逆らえなかったのか、
国全体が可笑しかったんでは、・・・人間魚雷。人間爆弾。
考えても恐ろしいことを、国はやってきたのです。
国民にも、外国にも、争いの無いように出来ないものでしょうか。
もう少し冷静になって下さい。誰でも争いはいやですから
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3回に分けて書きましたが書くほどに思い出が沸騰して来ます。
今年は何時もより反戦の放送が多い様に思います。
世界がまた大きな災いの渦に飲み込まれない事を祈ってひとまず終わります。
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by piko4438 | 2006-08-14 22:59 | Comments(20)
☆ 戦争と平和(8月に思うこと)
⑵昭和20年8月11日 福岡県久留米市にて罹災

4・5年前 前記の筑紫駅の件を読まれた、 筑紫の中学から
久留米空襲をテーマにした劇を作りたいから、生徒にお話を、と
依頼を受けました。家の事情で行けませんでしたので、
思いつくまま当時の様子と心境を手紙でお送りしました。
当時久留米の日吉小学校の生徒さんだった方が、書かれた本も添えて・・・
当然招待がありましたが、これも見に行けませんでした。
今でも心残りです。どの様に把握されたかと・・・
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久留米の空襲 突然の出来事でした。
今も不思議に思えるのは、あんなに全市街焼けてしまつているのに、
火炎を見なかった事です。
昼間だったせいかも知れませんが、燃え盛る炎を見たと言う記憶がありません。
一瞬のうちに焼け落ちたのかな・・・とにかく不思議な気がしております。

その日も抜けるような青空で、朝から暑く、やっと10日間の夏休みに入った日でした。
前記のように我が家は防空壕の作り直しが始まってました。
中に入れていた。箪笥も、机もすべての生活用具を、怒られながら、外に出しました。

これが出来れば今夜から郊外の親戚の家に泊まりに行かなくて済むと思い、
壕の中を空にして、床の張替えです。畳も敷けるようにと思いながら・・・

母は当時5歳の妹と 長女、従兄妹(いとこ)と8日亡くなった姉のお礼参りに
お寺え行く用意をしてました。
私はその頃は、空襲警報が出ても慣れっこになり、壕にも入らず、外で過ごしてました。

その日も手伝いを終えて、宿題を早く済まそうと離れで勉強中でしたが、
母から姉の供養だから来るようしっこく云われお寺につれて行かれました。

姉のお骨はこの時節だから早くお寺に納めた方が良いと云ってましたが、
戦死(女でも国の為に亡くなったのだから、忌中じゃなくこの張り紙でした)
だから まだまだお参りも多いだろう。このまま仏壇に上げたまま、急ぎお寺え出かけました。

お経も済みお茶を飲んでると、寺の前が騒がしくなり、大勢の人が、街から逃げて来られてます。空襲のサイレンも鳴らなかったように思います。
サイレンは始め警戒警報・(連続)空襲警報・(切れながら)・退避(消防団の人の声)の順です

本当に突然でした。全員裸足で筑後川の方え走って行かれてます、中には赤ちゃんを
おんぶして羽釜に白のお位牌さんを1個入れ来られたのが、凄く印象に残ってます。

その時お寺の子坊主さんが、これまた裸足でお弁当箱1個持ち、
泣きながら「タケヤガ焼けた」と言って帰って来られました。
この方も私と同級生で、徴用で、軍需工場に動員されて居られたのです。

私たちもお寺に居たら危ないと思い、大きな布団お借りして、
家陰のない竹藪に、身を潜めてました。
市内の方を見ると、太陽の光を受けて、キラキラと輝きながら、短冊みたいなのが、
沢山降ってました。時々ザーっと水を撒く様な音が聞こえますが、
その他は静かで、何も聞こえませんでした。

夕方近くなり、家の事も気になり 父と、もう一人の妹も置いて来てましたので、
取り敢えず帰ろうと、国道3号線を市内方え歩き始めた所、東櫛原迄は、
道も家もありました。
西鉄久留米駅まで来ると、ガックリです。何にも無く、ただ一つあった
デパート旭屋がぽっんと残っているだけでした。

母は顔色無くしてます。私たちが何を云っても聞こえず、ただ妹を乗せた乳母車を押して、
我が家のあった方え行こうとしますが、道路も焼け溶けて、通れませんでした。

遠回りして家の近くまで来ましたが、やはり家は有りませんでした。
100mくらい先からは残っているのに、中心全部焼失して、西は国鉄久留米駅まで
見通しでした。

道が冷めて家の所まで行くと、家の前にあった電柱らしき処に
自転車の形した鉄くずがありました。
後で聞くと、私たちがお寺に行く時居なかった妹と父は壕の中で
空襲をやり過ごして居たそうです。その時隣のおじさんが、
自転車押して来て「あんたんとこに、爆弾が落ちて、家は焼けよるバイはよ逃げんと」
と知らせて下さったそうで、押してきた自転車そこに置いて一緒に逃げたそうです。

父達に会うまで行き会う人事安否を尋ねまわりました。
暗くなって、町内会長さん宅で無事会うことが出来ました。
会長さんはその日 金丸小学校で会議中直撃弾で、亡くなられてました。

私の隣組でも壕に入って居られた方が20数名亡くなられました。
隣の同級生もお母さんと一緒に逝ってしまわれました。

私たち姉妹が無事だったのは 亡くなった姉が護ってくれたんだと、今も信じてます。
戦災に遭ったという事は大変なことですが、その後は もっと、もっと大変でした。

親子5名お寺の布団1枚で6反畑の墓地で、野宿しました。
私は二度焼かれた姉の遺骨をずーっと抱いてました。 4日後は終戦です。

両親のお陰で、亡骸 怪我人を目にすることはありませんでした。
父は隣組長してたので毎日跡形付け、家族の連絡に追われてました。
姉を亡くしてなかったら、こんなに戦争を実感しなかったかも・・・
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久留米空襲どんなに凄いことか、柱のかけらも残ってませんでした
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by piko4438 | 2006-08-10 23:29 | Comments(15)
☆8月8日の終電車
1995年10月5日
作者の田熊正子様より頂いた童話です。

西鉄大牟田線の最終電車に
筑紫駅の手前から乗った少女の物語です。

筑紫駅に近づくと・・・
「あたしのお弁当箱、チューリップのお花の絵のついた、お弁当箱
取ってくるから、一寸待っててくれない」・・・・・・

「お弁当箱?」
それがどうしたんかいと、車掌さんは思いました。

「でなにかい、あんたのお弁当箱を何処に置いてきちゃったの?」
「ほらあそこ、川のそばの林のなか・・・・」

少し臨時停車してそのまま大牟田まで・・・
その女の子は、お母さんと一緒に大怪我をして亡くなられていたのでした。

8月8日怪我した人亡くなられた人、其処に集められていたとの事です。

※筑紫駅の待合所の保存合わせ、平和の大切なことを忘れない為に
このお話を皆で力をあわせて、1冊の本にすることが出来ました。
と結んであります。
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※3冊とも戦争体験者の寄稿本です
上 鳥栖市郷土史(栖)
中 明和会同窓会誌
下 久留米南筑中学高良隊手記
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 f0003174_14245719.gif書いても、書いても、書き足らない でも何とか伝えたいとの思いで書いてます
コメント返しも読んで下されば、少しでも、戦争の悲惨さが伝わらないかと思ってます。
戦争は殺人じゃないと言われますが、そんな大義名分は無いと思います。
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by piko4438 | 2006-08-09 14:31 | Comments(14)
☆戦争と平和(8月に思うこと) 梄記載
 ⑴ 昭和20年8月8日 姉の死

これは鳥栖市在住の荒木晴生(荒木外科院長)様からの御依頼で書かせて頂きました。
鳥栖で発行されている郷土史栖(すみか)に載せる為です。
友達からも「思い出したくない事だとは思いますが、・・・」と言われ書いた物です。
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あの日のことは、今でも、朝から夜まで、私の思い出の中で、
これほど鮮明に記憶している日はあまり無いのではと思います。

その8日の朝9時過ぎ頃、母と座敷を掃いてると、隣の屋根との間から見えた、
やけに青い空を、編隊を組んだ、B-29が低空で、
福岡方面に飛んで行くのが見えました。
なのにあたりは静かで、空襲警報のサイレンが鳴ったのは、
それから暫くしてからでした。

でもこの頃は、サイレンにも慣れて、あまり慌てず、防空壕にも入りませんでした。
父は何処で聞いたのか、[因子爆弾]とか[マッチ箱爆弾]と言う物が広島に落とされたらしい、
それは光に当たっただけでも死ぬので、今日から防空壕で、生活する、と言って防空壕を
大きく作り直し初めて居ました。

その日の夕方です、男の人が二人家に来られ、
父が大声で母を呼んでくるよう叫びました。
何か不安を感じ裸足で、母を畑まで迎えに行きました。

母は収穫した野菜を近所の人におすそ分けしながら帰って来てました。
「西鉄から使いの人が見えてる」と言うと「一人か二人」かと尋ね
「二人」と答えると、いきなり手押し車を放置して真っ青になり帰って行きました。

家に帰ると隣組の人が集まってこられ、父と筑紫まで行く話しがあってました。
その頃家に残っている男性は、随分年配の人ばかりでした。
母は連れて行かないほうが良い・でももし怪我してたらとか・結局、
男性だけで行くと決まりました。

深夜、灯火管制で辺りは、真っ暗の中、白木の棺に収められ、
変り果てた姿で帰って参りました。
昨日あんなに元気に出て行ったのに・・・
今朝の10時ごろ見たあの時、津古と筑紫の駅辺りで離合する電車が、
機銃掃射を受けたのです。
24時間勤務から帰って来てたところでした。

壕があるので少し高くなった座敷に安置されました
明かりが漏れるとローソクも立てられず、線香を少し折って、香を焚きました。
私が姉を見たのは翌朝でした。少し顔が大きくなっていました。
体は御棺いっぱいに腫れ上がってました。
弾が背中からお腹に抜けてたそうです。

母は撃たれた時、息はあっただろうか?自分の名を呼んでいなかっただろうか
と繰り返し繰り返し云ってました。
「これなら即死じゃろう」との声に、
せめて苦しまなかったのなら・・・と自分を無理に納得させてました。

それから隣組の人にお願いして、疎開してた着物を持って来てもらい、嫁入り前
だったからと云って、お化粧し嫁入り姿に着飾りました。

今でも髪を三つ編みにした姉の着物姿を思い出します。
14歳で学徒動員として、西鉄に勤務し、まだ16歳でした。
夢に出てくる時は 戦 と書いた鉢巻をして、「オドンちゃんが、敵をやっつけてやる」
とおどけて見せます。

防空壕を出たり入ったりしながらのお葬式でした。
11日お寺にお礼参りに行った留守に家も、一度荼毘に付された姉までも
又焼かれてしまいました。

この頃つくづく思います。もし姉が生きてたら、どんな楽しい人生を送って居ただろうか、
いやその時はそれなりに国の為と本当に思って頑張っていたのだから、
満足だったんじゃなかろうか。色々思い計るのは、生きてる私たちです。

あの戦争で亡くなられた多くの人達にも、私の様な、姉妹 家族が居られるのです。
どんな保障もありませんが、私は姉達のお陰で
此の様に楽しい平和な世が来たと信じて居ます。

多くの犠牲者の方々の為にもこの平和を
大切に、大切に守り続けて行きたいと思います。
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追記
この時の電車を運転された方にもお会い出来ました。
私より深い傷を負って居られます。
この方も中学生の学徒動員でした。(18歳)

この時狙撃された筑紫駅のホーム待合室は、筑紫公民館に永久保存されてます。
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by piko4438 | 2006-08-07 16:21 | Comments(22)
☆戦争と平和(8月に思うこと)
前にも書きましたが、ブログ立ち上げの目的
戦争体験を語り継ぐ事

 ① 昭和20年8月 8日  福岡県 筑紫駅にて    姉の機銃掃射による死
 ②    々  8月11日   々   久留米市にて   罹災
 ③    々  8月15日   々   久留米市にて   終戦
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 始めに
これを残すにあたり、動機を記します。
同窓会誌に特集として
あの日あの時 私の昭和20年8月15日と言う投稿依頼がありました。
はがき2枚に書いた記憶があります。

本文のまま・・・
★久留米に住んでいた者にとって
終戦の時の気持ちは・・・等と言われても・・・
 11日の戦災、続いて終戦。頭の中は混乱しっぱなしでした。
今だってどんな気持ちだったかわかりません。

ただ11日からの夏休みも防空壕で過ごせる様にと
机等を持ち込み電燈を引いてもらっていた矢先、
8日の筑紫駅を襲った艦載機によって、
学徒動員で西鉄に勤務していた姉が死んだのです。

それからが大変、遺体引き取りも、敵機来襲の中を逃げ隠れしながら
筑紫のお寺まで、父と隣組の人が受け取りに行かれ、家に着いたのは
夜中でした。

ローソクも立てられず、線香も短く切っての通夜、11日は3日参りで
お寺まで、 帰り着くと家は跡形も無く、気が付いた時は、母は妹を乗せた乳母車・
私は、お寺の大布団を抱えていました。

それからは、どうせ避難するならと、野宿を決め込み、六反畑で過ごしたのです。
終戦まで3・4日間でしたけど、私の一生のうちで一番長かつた日・・・

親子寄り添って一生懸命同じ目的、同じ気持ちで過ごした時は無かったと、
今は懐かしく顧みて居ります。

その両親も今は無く姉とその時の事を、詳しく話して居る事でしょう。
可哀相な姉・一度も楽しい思いが出来なかった姉。

犠牲者の一人として、何時までも平和な日本が続く事を祈っている事でしょう
                                   1975年8月15日記

※後で判ったんですが、筑紫にはお寺は無く犠牲者は川原に安置されて居たそうです。
  母は最後までその事は知りませんでした。
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後記
  西日本鉄道70年史(広報室提供)  昭和20年8月8日
 
上り列車乗客20名の内即死8名   下り列車乗客200名の内即死56名
負傷者100余名 と言う甚大な被害を受けた。
わずか5~6分間の出来事であった。終戦まで後一週間という日の惨劇である
と記されています。

同窓会誌に載せていただいた記事今読んでも涙が出ます。
姉の事、久留米空襲の事又書かせて頂きます。
こんな人達が居たと云う事を心に留めて下さったら、有難いです。
(憲法記念日と重複してます)
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by piko4438 | 2006-08-03 16:08 | Comments(14)
☆憲法記念日に思うこと
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■憲法第2章第9条
   戦争の放棄
 条文
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、

  国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、

  国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
 
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
 
  国の交戦権は、これを認めない

※私の終戦

8月11日の久留米空襲、罹災続いて終戦。頭の中は混乱しっぱなしでした。今だって
どんな気持ちだったかわかりません。

ただ 11日からの夏休みも防空壕で過ごせるようにと、机など持込み、電燈を引いてもらっていた 矢先、8日の筑紫野駅を襲ったB29・艦載機によつて,学徒動員で西鉄に勤務していた姉が亡くなったのです

それからが大変でした。遺体引取りも敵機来襲の中安置された、川原まで、父と隣組の
かた達が連れに行って下さいました。

家に着いたのは夜中。ローソクも立てられず、線香を短く折ってのお通夜、
11日は3日参りでお寺まで・・・帰り着くと家は跡形も無く、
気が付いたときは、母は妹を乗せた乳母車、私は、お寺の大布団を抱えていました。

それからは、どうせ避難するならと、野宿をしました。
終戦まで3・4日でしたが私の一生の内で一番長かった日です

親子寄り添って、一生懸命、勝つことのみを、信じて過ごしたことは 
なかったと思います。今は懐かしく思い出して居ます

その両親も姉の所に行き、馬鹿げた戦争の事、話しているでしょう。
可哀相な姉、一度も楽しい思いが出来なかった姉、それが、犬死でなかった事を
祈りたいです。

その為にはこのような犠牲者を作ってはいけないのです。
思い出は私だけで充分です。

☆体験させないで下さい。 憲法が改悪されないことを、願います

■これは8月15日の思い出として同窓会誌にコメントした文です。少し訂正しました。
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by piko4438 | 2006-05-03 16:59 | Comments(20)