☆NO25チョーカー・ボトルカバー
お盆前のひととき小物を編んで見ました
ボトルカバーは昨夜です
里帰りしますので、急ぎアップしました。
◇色々の糸で試しましたが、シルクが一番スクリュウがかかったようです。
1 鉤6号ぐらいで編める糸
2 鎖100目くらい立てます 
  1目立ち上がり次の目から 鎖1目に5目づつ細編みをいれて行きます
  少し編んだらスクリュウをかけて下さい
  お好みの長さ40~44まで出来たら、きつく5目くらいのループを作ります
  反対側に8mmのパールビーズをつけます
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◇ペットボトルカバー
  前回の袋と同じ編み方です
  1 輪の中に長編み16目
  2 32目
  3 48目
  4 8柄出来ます10段くらい編んだら1柄を編み進み持ち手にします
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# by piko4438 | 2006-08-13 06:17 | ニットルーム | Comments(6)
☆ 戦争と平和(8月に思うこと)
⑵昭和20年8月11日 福岡県久留米市にて罹災

4・5年前 前記の筑紫駅の件を読まれた、 筑紫の中学から
久留米空襲をテーマにした劇を作りたいから、生徒にお話を、と
依頼を受けました。家の事情で行けませんでしたので、
思いつくまま当時の様子と心境を手紙でお送りしました。
当時久留米の日吉小学校の生徒さんだった方が、書かれた本も添えて・・・
当然招待がありましたが、これも見に行けませんでした。
今でも心残りです。どの様に把握されたかと・・・
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久留米の空襲 突然の出来事でした。
今も不思議に思えるのは、あんなに全市街焼けてしまつているのに、
火炎を見なかった事です。
昼間だったせいかも知れませんが、燃え盛る炎を見たと言う記憶がありません。
一瞬のうちに焼け落ちたのかな・・・とにかく不思議な気がしております。

その日も抜けるような青空で、朝から暑く、やっと10日間の夏休みに入った日でした。
前記のように我が家は防空壕の作り直しが始まってました。
中に入れていた。箪笥も、机もすべての生活用具を、怒られながら、外に出しました。

これが出来れば今夜から郊外の親戚の家に泊まりに行かなくて済むと思い、
壕の中を空にして、床の張替えです。畳も敷けるようにと思いながら・・・

母は当時5歳の妹と 長女、従兄妹(いとこ)と8日亡くなった姉のお礼参りに
お寺え行く用意をしてました。
私はその頃は、空襲警報が出ても慣れっこになり、壕にも入らず、外で過ごしてました。

その日も手伝いを終えて、宿題を早く済まそうと離れで勉強中でしたが、
母から姉の供養だから来るようしっこく云われお寺につれて行かれました。

姉のお骨はこの時節だから早くお寺に納めた方が良いと云ってましたが、
戦死(女でも国の為に亡くなったのだから、忌中じゃなくこの張り紙でした)
だから まだまだお参りも多いだろう。このまま仏壇に上げたまま、急ぎお寺え出かけました。

お経も済みお茶を飲んでると、寺の前が騒がしくなり、大勢の人が、街から逃げて来られてます。空襲のサイレンも鳴らなかったように思います。
サイレンは始め警戒警報・(連続)空襲警報・(切れながら)・退避(消防団の人の声)の順です

本当に突然でした。全員裸足で筑後川の方え走って行かれてます、中には赤ちゃんを
おんぶして羽釜に白のお位牌さんを1個入れ来られたのが、凄く印象に残ってます。

その時お寺の子坊主さんが、これまた裸足でお弁当箱1個持ち、
泣きながら「タケヤガ焼けた」と言って帰って来られました。
この方も私と同級生で、徴用で、軍需工場に動員されて居られたのです。

私たちもお寺に居たら危ないと思い、大きな布団お借りして、
家陰のない竹藪に、身を潜めてました。
市内の方を見ると、太陽の光を受けて、キラキラと輝きながら、短冊みたいなのが、
沢山降ってました。時々ザーっと水を撒く様な音が聞こえますが、
その他は静かで、何も聞こえませんでした。

夕方近くなり、家の事も気になり 父と、もう一人の妹も置いて来てましたので、
取り敢えず帰ろうと、国道3号線を市内方え歩き始めた所、東櫛原迄は、
道も家もありました。
西鉄久留米駅まで来ると、ガックリです。何にも無く、ただ一つあった
デパート旭屋がぽっんと残っているだけでした。

母は顔色無くしてます。私たちが何を云っても聞こえず、ただ妹を乗せた乳母車を押して、
我が家のあった方え行こうとしますが、道路も焼け溶けて、通れませんでした。

遠回りして家の近くまで来ましたが、やはり家は有りませんでした。
100mくらい先からは残っているのに、中心全部焼失して、西は国鉄久留米駅まで
見通しでした。

道が冷めて家の所まで行くと、家の前にあった電柱らしき処に
自転車の形した鉄くずがありました。
後で聞くと、私たちがお寺に行く時居なかった妹と父は壕の中で
空襲をやり過ごして居たそうです。その時隣のおじさんが、
自転車押して来て「あんたんとこに、爆弾が落ちて、家は焼けよるバイはよ逃げんと」
と知らせて下さったそうで、押してきた自転車そこに置いて一緒に逃げたそうです。

父達に会うまで行き会う人事安否を尋ねまわりました。
暗くなって、町内会長さん宅で無事会うことが出来ました。
会長さんはその日 金丸小学校で会議中直撃弾で、亡くなられてました。

私の隣組でも壕に入って居られた方が20数名亡くなられました。
隣の同級生もお母さんと一緒に逝ってしまわれました。

私たち姉妹が無事だったのは 亡くなった姉が護ってくれたんだと、今も信じてます。
戦災に遭ったという事は大変なことですが、その後は もっと、もっと大変でした。

親子5名お寺の布団1枚で6反畑の墓地で、野宿しました。
私は二度焼かれた姉の遺骨をずーっと抱いてました。 4日後は終戦です。

両親のお陰で、亡骸 怪我人を目にすることはありませんでした。
父は隣組長してたので毎日跡形付け、家族の連絡に追われてました。
姉を亡くしてなかったら、こんなに戦争を実感しなかったかも・・・
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久留米空襲どんなに凄いことか、柱のかけらも残ってませんでした
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# by piko4438 | 2006-08-10 23:29 | Comments(15)
☆8月8日の終電車
1995年10月5日
作者の田熊正子様より頂いた童話です。

西鉄大牟田線の最終電車に
筑紫駅の手前から乗った少女の物語です。

筑紫駅に近づくと・・・
「あたしのお弁当箱、チューリップのお花の絵のついた、お弁当箱
取ってくるから、一寸待っててくれない」・・・・・・

「お弁当箱?」
それがどうしたんかいと、車掌さんは思いました。

「でなにかい、あんたのお弁当箱を何処に置いてきちゃったの?」
「ほらあそこ、川のそばの林のなか・・・・」

少し臨時停車してそのまま大牟田まで・・・
その女の子は、お母さんと一緒に大怪我をして亡くなられていたのでした。

8月8日怪我した人亡くなられた人、其処に集められていたとの事です。

※筑紫駅の待合所の保存合わせ、平和の大切なことを忘れない為に
このお話を皆で力をあわせて、1冊の本にすることが出来ました。
と結んであります。
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※3冊とも戦争体験者の寄稿本です
上 鳥栖市郷土史(栖)
中 明和会同窓会誌
下 久留米南筑中学高良隊手記
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 f0003174_14245719.gif書いても、書いても、書き足らない でも何とか伝えたいとの思いで書いてます
コメント返しも読んで下されば、少しでも、戦争の悲惨さが伝わらないかと思ってます。
戦争は殺人じゃないと言われますが、そんな大義名分は無いと思います。
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# by piko4438 | 2006-08-09 14:31 | Comments(14)
☆戦争と平和(8月に思うこと) 梄記載
 ⑴ 昭和20年8月8日 姉の死

これは鳥栖市在住の荒木晴生(荒木外科院長)様からの御依頼で書かせて頂きました。
鳥栖で発行されている郷土史栖(すみか)に載せる為です。
友達からも「思い出したくない事だとは思いますが、・・・」と言われ書いた物です。
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あの日のことは、今でも、朝から夜まで、私の思い出の中で、
これほど鮮明に記憶している日はあまり無いのではと思います。

その8日の朝9時過ぎ頃、母と座敷を掃いてると、隣の屋根との間から見えた、
やけに青い空を、編隊を組んだ、B-29が低空で、
福岡方面に飛んで行くのが見えました。
なのにあたりは静かで、空襲警報のサイレンが鳴ったのは、
それから暫くしてからでした。

でもこの頃は、サイレンにも慣れて、あまり慌てず、防空壕にも入りませんでした。
父は何処で聞いたのか、[因子爆弾]とか[マッチ箱爆弾]と言う物が広島に落とされたらしい、
それは光に当たっただけでも死ぬので、今日から防空壕で、生活する、と言って防空壕を
大きく作り直し初めて居ました。

その日の夕方です、男の人が二人家に来られ、
父が大声で母を呼んでくるよう叫びました。
何か不安を感じ裸足で、母を畑まで迎えに行きました。

母は収穫した野菜を近所の人におすそ分けしながら帰って来てました。
「西鉄から使いの人が見えてる」と言うと「一人か二人」かと尋ね
「二人」と答えると、いきなり手押し車を放置して真っ青になり帰って行きました。

家に帰ると隣組の人が集まってこられ、父と筑紫まで行く話しがあってました。
その頃家に残っている男性は、随分年配の人ばかりでした。
母は連れて行かないほうが良い・でももし怪我してたらとか・結局、
男性だけで行くと決まりました。

深夜、灯火管制で辺りは、真っ暗の中、白木の棺に収められ、
変り果てた姿で帰って参りました。
昨日あんなに元気に出て行ったのに・・・
今朝の10時ごろ見たあの時、津古と筑紫の駅辺りで離合する電車が、
機銃掃射を受けたのです。
24時間勤務から帰って来てたところでした。

壕があるので少し高くなった座敷に安置されました
明かりが漏れるとローソクも立てられず、線香を少し折って、香を焚きました。
私が姉を見たのは翌朝でした。少し顔が大きくなっていました。
体は御棺いっぱいに腫れ上がってました。
弾が背中からお腹に抜けてたそうです。

母は撃たれた時、息はあっただろうか?自分の名を呼んでいなかっただろうか
と繰り返し繰り返し云ってました。
「これなら即死じゃろう」との声に、
せめて苦しまなかったのなら・・・と自分を無理に納得させてました。

それから隣組の人にお願いして、疎開してた着物を持って来てもらい、嫁入り前
だったからと云って、お化粧し嫁入り姿に着飾りました。

今でも髪を三つ編みにした姉の着物姿を思い出します。
14歳で学徒動員として、西鉄に勤務し、まだ16歳でした。
夢に出てくる時は 戦 と書いた鉢巻をして、「オドンちゃんが、敵をやっつけてやる」
とおどけて見せます。

防空壕を出たり入ったりしながらのお葬式でした。
11日お寺にお礼参りに行った留守に家も、一度荼毘に付された姉までも
又焼かれてしまいました。

この頃つくづく思います。もし姉が生きてたら、どんな楽しい人生を送って居ただろうか、
いやその時はそれなりに国の為と本当に思って頑張っていたのだから、
満足だったんじゃなかろうか。色々思い計るのは、生きてる私たちです。

あの戦争で亡くなられた多くの人達にも、私の様な、姉妹 家族が居られるのです。
どんな保障もありませんが、私は姉達のお陰で
此の様に楽しい平和な世が来たと信じて居ます。

多くの犠牲者の方々の為にもこの平和を
大切に、大切に守り続けて行きたいと思います。
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追記
この時の電車を運転された方にもお会い出来ました。
私より深い傷を負って居られます。
この方も中学生の学徒動員でした。(18歳)

この時狙撃された筑紫駅のホーム待合室は、筑紫公民館に永久保存されてます。
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# by piko4438 | 2006-08-07 16:21 | Comments(22)
☆連日気温35度
f0003174_1135271.gif毎年云ってるような気がします
   "今年は特別暑い”

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  ♡どーぞ召し上がれ
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# by piko4438 | 2006-08-06 11:45 | Comments(11)