☆ 戦争と平和(8月に思うこと)

⑵昭和20年8月11日 福岡県久留米市にて罹災

4・5年前 前記の筑紫駅の件を読まれた、 筑紫の中学から
久留米空襲をテーマにした劇を作りたいから、生徒にお話を、と
依頼を受けました。家の事情で行けませんでしたので、
思いつくまま当時の様子と心境を手紙でお送りしました。
当時久留米の日吉小学校の生徒さんだった方が、書かれた本も添えて・・・
当然招待がありましたが、これも見に行けませんでした。
今でも心残りです。どの様に把握されたかと・・・
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久留米の空襲 突然の出来事でした。
今も不思議に思えるのは、あんなに全市街焼けてしまつているのに、
火炎を見なかった事です。
昼間だったせいかも知れませんが、燃え盛る炎を見たと言う記憶がありません。
一瞬のうちに焼け落ちたのかな・・・とにかく不思議な気がしております。

その日も抜けるような青空で、朝から暑く、やっと10日間の夏休みに入った日でした。
前記のように我が家は防空壕の作り直しが始まってました。
中に入れていた。箪笥も、机もすべての生活用具を、怒られながら、外に出しました。

これが出来れば今夜から郊外の親戚の家に泊まりに行かなくて済むと思い、
壕の中を空にして、床の張替えです。畳も敷けるようにと思いながら・・・

母は当時5歳の妹と 長女、従兄妹(いとこ)と8日亡くなった姉のお礼参りに
お寺え行く用意をしてました。
私はその頃は、空襲警報が出ても慣れっこになり、壕にも入らず、外で過ごしてました。

その日も手伝いを終えて、宿題を早く済まそうと離れで勉強中でしたが、
母から姉の供養だから来るようしっこく云われお寺につれて行かれました。

姉のお骨はこの時節だから早くお寺に納めた方が良いと云ってましたが、
戦死(女でも国の為に亡くなったのだから、忌中じゃなくこの張り紙でした)
だから まだまだお参りも多いだろう。このまま仏壇に上げたまま、急ぎお寺え出かけました。

お経も済みお茶を飲んでると、寺の前が騒がしくなり、大勢の人が、街から逃げて来られてます。空襲のサイレンも鳴らなかったように思います。
サイレンは始め警戒警報・(連続)空襲警報・(切れながら)・退避(消防団の人の声)の順です

本当に突然でした。全員裸足で筑後川の方え走って行かれてます、中には赤ちゃんを
おんぶして羽釜に白のお位牌さんを1個入れ来られたのが、凄く印象に残ってます。

その時お寺の子坊主さんが、これまた裸足でお弁当箱1個持ち、
泣きながら「タケヤガ焼けた」と言って帰って来られました。
この方も私と同級生で、徴用で、軍需工場に動員されて居られたのです。

私たちもお寺に居たら危ないと思い、大きな布団お借りして、
家陰のない竹藪に、身を潜めてました。
市内の方を見ると、太陽の光を受けて、キラキラと輝きながら、短冊みたいなのが、
沢山降ってました。時々ザーっと水を撒く様な音が聞こえますが、
その他は静かで、何も聞こえませんでした。

夕方近くなり、家の事も気になり 父と、もう一人の妹も置いて来てましたので、
取り敢えず帰ろうと、国道3号線を市内方え歩き始めた所、東櫛原迄は、
道も家もありました。
西鉄久留米駅まで来ると、ガックリです。何にも無く、ただ一つあった
デパート旭屋がぽっんと残っているだけでした。

母は顔色無くしてます。私たちが何を云っても聞こえず、ただ妹を乗せた乳母車を押して、
我が家のあった方え行こうとしますが、道路も焼け溶けて、通れませんでした。

遠回りして家の近くまで来ましたが、やはり家は有りませんでした。
100mくらい先からは残っているのに、中心全部焼失して、西は国鉄久留米駅まで
見通しでした。

道が冷めて家の所まで行くと、家の前にあった電柱らしき処に
自転車の形した鉄くずがありました。
後で聞くと、私たちがお寺に行く時居なかった妹と父は壕の中で
空襲をやり過ごして居たそうです。その時隣のおじさんが、
自転車押して来て「あんたんとこに、爆弾が落ちて、家は焼けよるバイはよ逃げんと」
と知らせて下さったそうで、押してきた自転車そこに置いて一緒に逃げたそうです。

父達に会うまで行き会う人事安否を尋ねまわりました。
暗くなって、町内会長さん宅で無事会うことが出来ました。
会長さんはその日 金丸小学校で会議中直撃弾で、亡くなられてました。

私の隣組でも壕に入って居られた方が20数名亡くなられました。
隣の同級生もお母さんと一緒に逝ってしまわれました。

私たち姉妹が無事だったのは 亡くなった姉が護ってくれたんだと、今も信じてます。
戦災に遭ったという事は大変なことですが、その後は もっと、もっと大変でした。

親子5名お寺の布団1枚で6反畑の墓地で、野宿しました。
私は二度焼かれた姉の遺骨をずーっと抱いてました。 4日後は終戦です。

両親のお陰で、亡骸 怪我人を目にすることはありませんでした。
父は隣組長してたので毎日跡形付け、家族の連絡に追われてました。
姉を亡くしてなかったら、こんなに戦争を実感しなかったかも・・・
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久留米空襲どんなに凄いことか、柱のかけらも残ってませんでした
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Commented by Vavi at 2006-08-11 01:22 x
今、住んでいる津の町は昭和20年7月26日~28日の空襲で一面の焼け野原になったそうです。戦前まで、津には鐘紡、倉敷紡績、近江絹糸といった繊維関係の工場がたくさんあったので、B29の爆撃目標になりました。空襲で亡くなった人の遺体は、海岸に穴を掘り、そこで火葬にしたそうです。それが7月28日です。
私たちが、子供の頃は7月28日は海で泳いではいけない日でした。
誰が決めたわけでもなく、その日に泳ぐと空襲で亡くなった人の幽霊が出るとか言ってました。確かに、不思議と7月28日に海での事故が多いのです。
Commented by Vavi at 2006-08-11 01:36 x
また生まれ故郷の紀伊長島の墓地の入口に近い場所に、
通称「外人さんの墓」というのがあります。
墓碑には「無名戦士之墓」と彫られています。
昭和20年の終戦前に、地元の漁師さんが海で遭難していたアメリカ兵を救助しましたが、すでに死亡していたとかで、その人のお墓です。
名前も何もわからず、それで「無名戦士」となったわけです。
おそらく、乗っていた飛行機が撃墜されたのでしょう。
その人にも、親、兄弟、姉妹はいたはずです。
どこで亡くなったのかも知らない家族がいたのです。
昔から、お盆にお墓参りすると、うちの母の実家のお墓、先日お話した
日露戦争で亡くなった買われて来た子「大西直吉」のお墓、最後に
この外人さんのお墓に線香を上げるのです。
子供の頃は、母に「外人さんの分も線香を残しといてな」とよく言われました。
Commented by piko4438 at 2006-08-11 06:14
♩vaviさま
戦争体験を書き込もうと、頑張っては見たものの、8日から15日迄が
いかに短かったか、実感してます。
明日は11日とびっくりして、夜の仕事となりました。
もうコメントも期待してませんでした。書いてる私も何回も、同じ事を
繰り返して呆れられてるんじゃないかと、思ったりもしてました。
今朝の訪問そういう意味でも、力付けられました。

その時は、一日々が長かったこと・・・野宿も一ト月くらいした感じでした。
今の様に暑い日に蚊に食われないように布団被って寝てました。
足が出るとか、頭が出るとか云いながら、暑い記憶はありません。
明日に希望を持ってのホームレス生活3日間でした。
Commented by gotenn17 at 2006-08-11 15:20
Vaviさんのコメントに対して・・・ピコ様、な~に言ってるんですか? 書いて伝えることに意味があるのにぃ~。 読んで気持ちを受け取る人もいます。 私の本音・・コメントは中々書くの難しいです。どんな風に受け止めたかを文章にするのは難しいです。 でも、読むことは出来ます。 そんな方もいると思いますよ。 自分の思いを伝えてくださいませ。 
Commented by kun9145 at 2006-08-11 17:41
久留米の空襲の事は何も知らずに、野中町と南町に住んでいました。
デパートがぽつんと残っていただけ・・・とか
今の商店街を想像しながら、涙が溢れて来てしまいました。
どうぞお姉さまの分も、幸せに生きてください。
そして一人でも多くの人に、この想いを伝えなくては・・・と思います。
Commented by whitececile at 2006-08-11 20:10
Pさん、>書いてる私も何回も、同じ事を
繰り返して呆れられてるんじゃないかと、思ったりもしてました・・
そんなことありませんよ!こうやって、わたしこそ、この読んだ気持ちをどうやってコメントに残そうか、伝えたい、そう思って読んでいますよ。
とても意義のある、もちろん、できることなら、過去にそんな悲しい思いなんかしたくなかったでしょう。
Commented by ko-ko-ro3 at 2006-08-11 22:45
広島、長崎の原爆はテレビ、新聞等で報道されています。又、東京大空襲のことは母から何度も聞いています・・でも、これが一部じゃないってことなんですね・・・実際に目にしたもの、耳にしたものしか認識していませんでしたがpikoさんのような経験をした方が全国各地にいらっしゃるってことなんですね・・恐ろしいことです・・
実際に体験していない者がコメントするのは、想像でしか書けないので
とても歯痒いです・・でも戦争を憎む気持ちは同じだと思います。


Commented by DARESDAROU at 2006-08-12 06:58 x
前までは 戦争もういい と思っていました。最近 これではいけない みなに伝えなければ・・・と思うようになりました。孫達にも話します。明日みな集まったら 私の戦争体験を話してやりましょう。 先ずは家族から。
Commented by piko4438 at 2006-08-12 10:12
♩gotennさま
弱音に聞こえましたね、気を使わせてごめんなさい
いつも頭から離れない事なのに文にする事の難しさを痛感してます。
この時期の事は繋がってますので、如何書いたらいいか、
文才の無い嘆きです。
旧国鉄OBの方から、OB会通信に、8がつ8日の記事載せて下さいました。パンドラの壷という名でホームページに載っているのです。
誰でも心では戦争は駄目と解っちゃ居るんですよ・・・
でも何故起こるんでしょう???
Commented by piko4438 at 2006-08-12 10:23
♩kunさま
いつも変わらぬ優しいこころ使い、有難う御座います
野中町は、文化センターのある所ですか、
あそこらは、戦前は何も無い所でしたが、
今の医大の学校が有る所は軍の兵站部でした。

南町も51連隊48連隊と幾つもの陸軍師団が置かれてました。
要するに久留米は軍都でした。蛍川には憲兵隊も有ったんですよ
其処の前を通る時は大きい声で「♪兵隊さんよありがとう~~」
と歌いながら通ったものです。
何も知らない清い心で・・・
Commented by piko4438 at 2006-08-12 10:31
♩Cさま
思い出して行くうち、だんだん感傷的になって・・・
気持ちもその時の年齢ですね。今両親の心が解る様になってます。
お金があっても何も買えない、
どのようにして食べ物調達してたんでしょうか。
焼け出されて直ぐは乾パン、干し芋等頂きました。
お腹空いていたでしょうか?覚えてません・・・
なにか食べさせてくれてたんでしょうね・・・親は凄いです・・・
Commented by piko4438 at 2006-08-12 10:39
♩kokoroさま
いつも貴女のコメントに驚いてます。何故?
一番若くて、跳んでる女(ごめんなさい)と勝手に思ってましたので・・・
此処まで感心持って頂いてウレシイデス。
お母さんの事やはりしっかり受け止めていたのですね。
次の世代までお願いします。
Commented by piko4438 at 2006-08-12 10:57
♩daredaroさま
ほんとにそう思うようになって来ました
話しても半分も伝わらないと思いますが。
映画・テレビを見ても、ドラマとして見てしまいそうです。
私は戦争のあるドラマは未だに見たくありません。
直ぐこんなものじゃないと思うからです、と上官が威張るのに
無性に腹が立つからです。
久留米でも脱走して来た兵隊さんが居られました。
誰もかばえないのです。その後を憲兵隊の人が、
二人銃剣持って探しに来られました。見つかったら
重営倉という所に入れられるそうです。子供みたいな兵隊さんでした。
母は泣いてました。
Commented by karudamon3 at 2006-08-12 23:31
私のような若輩者が、どれだけ脳裏に悲惨な状況を想像したとしても
実際の光景またその時の空気、臭い、感情というものは、到底追いつかないほどのものだったに違いありません。
経験者の話を聞くにつれ、戦争とは人の心をズタズタに切り裂居ていく
者だと思います。優しい人が自分や身内を守るために涙を飲み下し
鬼のような心で生きていかなくてはならないこともあったでしょう。
本当に恐ろしいものです。
いけないことも、いけないと言えない、ねじれた正義によって戦争は
大きくなっていくのでしょう。そういう正義を払拭する勇気を持たなくてはいけませんね。国がどう言おうと正しい正義を主張できなければならないですね。
どんなに厳しい状態でも乗り越えていらした方々には
希望を捨てず、苦労も惜しまない、貪欲に前に進もうという力強さを
感じます。だからこそ、今の平和な時代がここに存在するのですもの。
その大変な思いを、無にしないよう生きていかなくてはいけませんね。
しっかと、子供に伝えます。
Commented by piko4438 at 2006-08-14 11:14
♩karudamonさま
小さなお子様をお持ちのお母さんが、これだけしっかりした考えをお持ちとは改めて驚きです。いや感心させられました。
私も戦後いろいろの方面から見・聞きしていますが、体験と言っても、何処まで心内が表現出来るか判りません。ただ感じたこと、見たことを書き残すのみです。15日の終戦・・それより酷くなっていく生活
戦争は10年20年あとまで苦しみが残って行きます。
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by piko4438 | 2006-08-10 23:29 | Comments(15)